最近目にするいろんな議論や対立をみるにつけ、インターネットやら携帯といったコミュニケーションの道具はどんどん発達しているにもかかわらず、人と人、共同体と共同体が「コミュニケートすること」はより困難になっているように思う。あらゆるところで対立が深まってるという印象がある。
捕鯨、CO2、拉致、核、○○偽装、を巡る対立、テロ。。情報があまりにも即座にあからさまになってしまうから、違いがより先鋭化して表面に出て来てしてしまうのかもしれない。そこ別に喧嘩するところじゃないでしょ、ってところでピリピリ、ヒステリック。仕事をしてる身の回りにも対立は多い。
そして自分の主張を分かってくれないからといって銃をぶっ放す、体当たりする。そんなニュースばかり毎晩聞かされている。情報も経験も昔の人よりたくさん持ってて利口になったかと思いきや、結局やることはそれかよ、、みたいな。
そんな中最近読んで興味深かったのが、物理学者デビッド・ボームがコミュニケーションについて書いた「ダイアローグ(対話)」論。ボームがいう対話とは、「情報やアイデアではなく意味を共有」し、「明確な目的を定めず」、「一切の前提を排除」、「あらゆる想定を保留」し、「目的を持たずに話す」、「説得はしない」といったプロセスを経て個人や組織などの対話を深め、あらゆる共同体を協調に導くスキル、だという。
これって仏教で言う『止観』っていうやつに近いんような気がするんだけど、まずは自分の主張をいったん停止させて、解釈なしに相手の話しを聞く。そして相手の考えをよく見ながら自分の考えも目の前に掲げて良く観察する。お互いの考えの違いをそれぞれ見ながら話し合うというやり方。谷川俊太郎さんがほぼ日でさらっと言ってたことも同じような意味だと思う。
反対意見を言われて「私がまちがっているのかもしれない」と思うのは、「私は正しい」と思いこむのより健康で建設的です。そこから始めるほうが「私は正しい」と思いこむところから始めるより、ずっと相手とうまく行くと思う。
(谷川俊太郎質問箱)
自分のエゴが邪魔をしてなかなかそんなに上手には出来ないけど、こういう考え方でみんなが対話ができれば、少しはムダな争いも減るのかもしれない。よく考えると、ディスカッションやディベートみたいに人と争う技術は学校でも教わるけど、ボームのダイアローグのように人と協調する為の技術っていうのはあまり教わった記憶がない。
ただ最近ではアプリシエイティブ・インクワイアリーとかワールド・カフェとか、オープンスペース・テクノロジーとかこの考え方を取り入れた会議や人材開発の手法はアメリカを中心にたくさん開発されている。
これだけ争いの多い時代だから、自分の身を守るという意味でも協調のスキルは意識して学ばないといけないという気がする。「ちょっとまて、話せばわかる」、と加藤茶だって言っていた。智慧ってこういうもんなんだと思った。
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